|
|
制度設計と政治哲学とコンプライアンス
加藤和明
2010年10月05日 |
政権交代や与党代表選出に際して「政治とカネの問題」が論じられ、有力候補と検察の確執や尖閣事件の処理についての政権と検察の関わり方に、国民の目が釘付けになった。追い打ちをかけるように、検察の致命的といえる不祥事が内部告発によって暴露されたり、検察が二度にわたって不起訴を決めた事案が検察審査会によって引っくり返されて「強制起訴」となったりしたものだから、この国は、今、検察の在り方をめぐって大騒ぎである。国民の少なくとも大多数は、これまで、検察を“正義の番人”と信じ、全幅の信頼を置いてきたからである。
一方で、そのような世情を反映するかのように、ハーバード大学の政治哲学教授マイケル・サンデルの講義「Justice正義」が話題を集めている。ハーバード大学で史上空前の履修者数を記録し続けていて、NHKはその模様を「ハーバード白熱教室」と銘打って、この8月に約1週間(16日〜21日)、連日2時間BSハイビジョンで放映した。そのエッセンスを活字とした書物『これからの「正義」の話をしよう』もベストセラーとなり(旧七帝大の同窓会的組織である学士会の会報によると七大学の全ての生協で売り上げ1位となっているとか)、NHKはついに8月の末ご本人を日本に招き、東大の安田講堂で“正義論”の公開講義を実現させた。世情の動きとあまりにもタイミングが良すぎたこともあり大変な反響を呼んでいる。NHKはその記録を180分にまとめ、10月の末に放送(11月の初めに再放送)することとしていると聞くが、あまりの反響に(?)、つい先日90分の短縮版を予告編のようにNHK-TVGの電波に乗せたので、反響はさらに広がっているようである。
筆者は、本年03月14日付の当コラムで、“正義”を媒介に、ICRC(国際赤十字委員会)とICRP(国際放射線防護委員会)の比較を行って見せた。前者が活動の七原則に「人道・公平・中立・独立・奉仕・単一性・世界性」を謳って “正義” を排除していること、後者が「Justification:正義・正当性の追及」を放射線防護三原則の最初に掲げていること、が対照的であると指摘し、正義Justiceというのは、放射線源の“使用”に関わる原則には馴染むかも知れないが、“放射線防護の原則”には馴染まないものである(ICR(国際医学会議)の下部機関として活動を始めたICRPの視点は、“人体に放射線を当てたり、人体を放射線に曝すことに結び付く”行為に注がれている)との意見を述べた。このとき議論の素材とした“正義論”が、半年も経たないうちに、このような形で世間の関心を集めるようになるとは、全く思いもしないことであった。
サンデル教授が講義や著作で分析して見せてくれるように、今日、人々の価値観は多様であり、正義の規定・行動の規範も多彩である。功利主義者、自由主義者、自由至上主義者(リバタリアン)、父権主義者(または父親的温情主義者:パターナリスト)、サンデル教授のような共同体主義者(コミュニタリアリスト)、能天気主義者(イキアタリバッタリアン)、日和見主義者(カザミドリアン)、“寄らば大樹の陰”主義者(パラサイティアン)、等々、世の中には様々の人がいる。政治や検察の無様な実態を見せつけられて、国民の多くは、国の将来を託するに値する人物や政党の選別に必要な判断基準、すなわち“望ましい政治哲学”の探索や構築ができずにいるようである。
わが国は“法治国家であることを標榜”し、国民は「例え悪法であっても“法は法”」、「誰しも“法の規定は順守”しなければならない」などと教えられる。国民を放射線の齎す潜在的危険から守るための国としての制度設計も、このような方針を前提に作られ実践されている。
また、この国では、三権分立の建前が貫かれ、実際に最高裁が行政や立法に“憲法違反”の判定を下すことも間々あった。しかしながら、一方で、「人の命は地球より重い」という論理を持ちだして「持参金つきでのテロリスト(囚人)解放」という“超法規的措置”をとり、国際的に顰蹙を買って、国益を損ねた最高指導者も存在する。
実際問題として、国民が法の定めに立ち向かった時の接し方は、言うほど簡単ではない。真夜中などヒトもクルマも殆ど通らない時間帯に、見通しの良い道の交差点に差し掛かった時、信号の色が赤の間じっと待ち続ける人はどれだけいるであろうか?
国の制度設計を具現化したものが法令であるが、それは往々にして関係者の思惑が込められてつくられる。当初から存在する瑕疵も少なからず放置され、経時変化に伴う品質・性能の劣化も顕著となっている“制度設計”においては、出来上がった法令の形に囚われるより、立法の精神をより重く見る方が、遥かに望ましい場合も少なくない。筆者は“コンプライアンス”なるものを、必ずしも狭く「形の上での法令順守」を意味するものとは考えないが、あえてマスコミの解釈に合わせ、狭義に“法令順守”を迫るものとするなら、制度設計の性能を常時監視し、合目的性・合理性・信頼性・経済性、などの評価を継続的に実施し、改善のfeed-backを迅速に掛けることに国は責任を持たねばなるまい。このことがもっときちんと行われない限り
“過ぎたるは猶足らざるが如し”とか“何事もホドホドに行うのがよろしい”といった指導原理に従って行動する人々を非難することはできないと考える。
優れた制度設計には優れた政治哲学が必要とされる。そしてその政治哲学は“正義”をどのように捉えるかによって大きく異なってくる。上述のごとく、価値観や正義の捉え方には個人差があり、万人が認めるような「唯一といえる最上の政治哲学」を見出すことは困難である。考えることやそれを発表することに自由を保障される自由社会にあっては、それがいろいろの政党を生み出す力となっているのであり、人々も自由の有難味を認めている。そこで、「政権は政党間で移動し、指導者は交代するものである」という現実を直視するなら、“国の制度設計”が、常時その性能を監視し劣化防止のためのfeed-backが間を置かずに掛けられるように手直しされるスグレモノに変身し得たとしても、時の政権の政治哲学が影響を及ぼすことは必須であり、特に政権の交代時などには、性能が一時的に劣化を強めることは避け難いものであることが分かる。国民を放射線の望ましくない影響から守るという“放射線防護”のシステムも例外ではない。そう考えると、“不出来な制度設計”への付き合い方としては、この国でこれまで伝統的に重宝されてきた“中庸の美徳”に、これからも支えてもらうというのが賢明な方策といえるのではなかろうか。要は“(立法の)形にとらわれることなく(立法の)魂を重視せよ”ということである。
しかし、だからといって制度設計をより優れたものする努力(形を整える努力)を放棄して良いということにはならない、ことは言うまでもない。
|
|
|
|
|
|
|
|
|