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ICRCとICRP
加藤和明
2010年03月01日 |
ICRC(International Committee of the Red Cross)とは「赤十字国際委員会」、ICRP(International
Commission on Radiological Protection)とは「国際放射線防護委員会」のことである。前者は、アンリ・デュナン
Henry Dunant が1862年に刊行した著作「ソルフェリーノの思い出」の中で行った提案を受けて、1863年に創立された“戦争時における中立人道的活動を行う国際組織”であり、後者は、1925年にICR(国際放射線医学会議)が提案し、1928年にICRの下部組織として設立された放射線防護の国際的な仕組みを作る目的の組織である。但し、設立時には前者は「五人委員会」、後者は「国際X線・ラジウム防護委員会」という、現在とは異なる名称であった。
両者は、“人類の同胞を苦しみから救いたい”という共通の願いを持ってスタートしたといえるが、その活動の様相はかなり異なっている。それを端的に表しているのがノーベル賞受賞の数である。前者においては、提案者が平和賞の第1回(1901年)、ICRC自体が、1917年、1944年、1983年の3回平和賞を授けられているのに対し、ICRPの方はゼロである。1983年の受賞は、赤十字社連盟(IFRC)との合同受賞である。
「赤十字運動」は、今日、ICRC、IFRC、それに各国赤十字・赤新月社の3組織から成り立っていて、IFRCの正式名も「国際赤十字・赤新月社連盟」と訳されている。赤十字の標識は提案者がスイス人であったことから、スイスの国旗を基に赤白逆にして作ったものであるが、回教徒の国が十字を嫌い、代わりに三日月を使ったことから、今日では「国際赤十字・赤新月運動」と呼ぶのである。三日月と新月は同じと言えないと思うが、日本では訳語に“新月”を使っている。ユダヤ教徒も十字を嫌うので、赤十字運動の最高決定機関である「赤十字・赤新月国際会議」は、2005年12月8日、それまでの“満場一致”方式をあえて変更し、多数決によって、宗教的に無色な新標識Red
Cristal(赤水晶、赤菱、赤菱型)の使用を承認した。イスラエルで使われていた「ダビデの赤盾」、王政時代のイランで使われていた「赤獅子太陽」などは、承認されないまま姿を消すことになる。しかし、筆者はいまだこの標識Red
Cristalが実際に使われているのを目にしたことがない。なお、中国では「紅十字会」、北朝鮮では「赤十字会」の呼称を使っている。
さて、ICRCとICRPの活動に対する世界の評価に大きな違いを生じた原因は何であろうか?筆者は、「正義:Justice, Justification」というものに対する取り組みであろうと考える。
アンリ・デュナンは赤十字設立に当って七つの原則、「人道・公平・中立・独立・奉仕・単一性・世界性」、を打ち立てたが、それには“正義”を取り込んでいない。ジュネーブ条約 などにより、赤十字の標章を掲げた施設やスタッフは戦争による攻撃は受けないこととなっているが、第2次世界大戦や最近の中東での戦争で、必ずしもこれが守られなかったことは周知の通りである。標識を使った方にゴマカシがあったか、攻撃した方にヤクソク(条約)違反があったかのどちらかであろうが、戦争というのは「勝てば官軍」で、"正義"は勝者の側にあるとされるものである。赤十字は、大国の思惑を知りつつも、義の存否を問わずに、活動を続けてきたらこそ声価を高めているのではあるまいか。
翻って、ICRPの方は、打ち立てた「放射線防護三原則」の真っ先に「被曝の正当化(Justification)」を持ってきた。19世紀末にX線やラジウムが発見されるとすぐに医療界での使用が始まり、放射線や放射能が人体に悪い影響を齎す力を潜在的に保有することを、先ずは医学界が知るところとなった。それゆえ、1925年という、使用後の比較的早い時期に、医学界では国際会議(ICR:国際放射線医学会議)を開き、放射線防護の国際的方策の策定に立ち向かったのである。放射線防護のシステム構築には「放射線計量(線量評価)」と「放射線の被曝制限」という2本の柱が必要である。ICRは前者の任を負うものとしてICRU(放射線の量と単位と測定に関する国際委員会)を、後者の任を負うものとしてICRPの設立を決めた。この時点では防護の対象として強く意識されていたのは医の施術者であったと思われる。
先の大戦での戦時中、アメリカでは核兵器の開発に絡んで、研究者や技術者など関係者の放射線被曝管理が重要となり、放射線防護の学問「保健物理」が誕生した。
我が国では、レントゲンのX線発見の報に接した翌年(1896年)にはX線の発生に成功し、物理や医学の研究対象となったが、一般国民が放射線や放射能を身近に感じたのは1945年の原爆被災と1954年のビキニ環礁における水爆実験による“死の灰”への被災の報道によるものであったといえる。我が国では「放射線影響の研究」は実質的に此のとき始まったといえる。「放射線影響の研究」への世の関心の高さと研究に携わる者の数の多さは、今日に引き継がれている。
放射線の影響に係る科学と放射線の防護に係る科学は、関係は深いものの、別のものである。この国で「放射線防護の科学」が実質的に芽生えたのは、我が国がアイゼンハウアー米大統領の勧めに応じて「原子力の平和利用」を始めることにした1950年代末のことであった。放射線防護の科学が学問として未発達なまま、国は、国民を放射線の望ましくない影響から防護するための方策の“制度設計”を迫られ、ICRPの創出・勧告するシステムを“原子力の傘”の下に収める形で採用した。
ICRPが勧告する、当時の放射線防護システムは、医学利用に係るものは別枠とし、それ以外については制御可能な被曝のみを取り上げるということで、自然界にもともと存在する自然放射線や、戦争・災害・事故に起因する放射線への暴露は対象から除外するとした。原子力の平和利用に当たっては、原子力の軍事利用に対して「つくらず、持たず、持ち込ませず」の三原則を定め、放射線の防護には、現在「(放射線暴露への)正当化、(防護対策の)最適化、(放射線の)被曝制限」の三原則を設けている。これにより、“原子力は事故を起こさないもの”を保証するための学問「原子力安全」と放射線安全管理の方策を考えるための学問「放射線防護」が必要となった。「原子力安全」は“事故を起こさないための研究や技術”を、「放射線防護」は、“事故は起きないことを前提に目標や方策”の策定を、研究し、実践するのである。
しかし、その後人類は、自然界に大きく手を加えたり、活動の領域を地球の大気圏外にまで拡大し、また事故は起こさないとしてきた原発がチェルノブイリのような大規模での事故を実際に起こしてしまったので、ICRPが当初採用した前提は大きく変わり、もはや“対症療法”の積み重ねによる改善では済まない段階に達していると考える。出発時点での前提の崩れは、システムの有効性や技術的可能性をも含めて、目標や方策の根本的見直しを求めているように思われる。
国民線量のほぼ100% を医療被曝と自然放射線への暴露が占めているという現実がありながら、そして個人として多くの種類の“放射線被曝”に関わりを持つに至っている今日、“特定の放射線源”の使用等に対してのみ「正当性・最適化・被曝制限」の三原則を適用せよというのには、無理があるのではなかろうか。放射線が人体に及ぼす影響は、それが何であれ、放射線の種類や量によってのみ決まることで、放射線の出自や、それが人体に入射するに至った事情などによって変わるものではない。先述のように、核兵器の使用や実験による放射線への暴露によって、放射線が人体に悪影響を与えるということを全国民が見聞してしまったので、放射線への暴露に“正当性”を求めるシステムには違和感を覚えてしまうのである。
被曝要因の一つである核兵器については、「要因そのものをこの世から追放すべきである」との思いが、多数の国民にあり、国家的願望となっている。原発など大規模放射線施設に限らず、規制対象に取り上げた放射線源についても、多くの人々(社会)は、事故(人的災害)や自然(が引き起こす)災害への被災に対してまでも、要因の撲滅・抹消を目標に据えたがる。
しかしながら、本来、安全論というのは、リスク要因をこの世から追放することを手段にしないことを前提としている。交通事故を減らすために自動車の使用や製造の停止を求めることはしないのである。
このように考えてくると、正当性の要求がそもそも無理なものである“戦争”や“神様の気紛れで起こる災害”、“(元々過ちを起こすことを本性として備えている)人間の犯す誤謬で起こる事故”によって蒙る“放射線への暴露”を対象外としておきながらが、ICRPが“正当性”を真っ先に据えて「放射線防護の三原則」を掲げたことが、日本国民の間に根付いた「放射線嫌悪症」「放射線過敏症」の“治療”を困難なものにしている大きな要因ではないかとも思われてくるのである。
こんにち、誰しも放射線との付き合いなしには生きていけない、という現実がある。放射線は怖がり過ぎても、怖ガらなすぎても健康に良くないのであるから、寺田寅彦ではないが、放射線を適切に怖がることは大変に重要である。放射線源の違いや使用目的などによって規制の仕方を変えるようなことはせず、「単純にして統一的な放射線防護システム」の構築はできないものであろうか?
筆者は、ノーベル平和賞の受賞に大して価値を認めるものではないが、ICRPがもしもこれに成功するなら、間違いなくノーベル平和賞受賞の栄に与れると思うが、如何であろうか?
<追記>
Justification(正当性)の追求とかJustice(正義)というのは、放射線源の“使用”に関わる原則には馴染むかも知れないが、放射線の“防護”には馴染まない、ICRPの視点は、“人体に放射線を当てたり、人体を放射線に曝す”という行為に注がれているのである。 |
(2010年03月14日) |
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