RSF 放射線安全フォーラム 本文へジャンプ
理事長コラム


安全確保に係るシステムの設計と運用
加藤和明
2015年01月01日

 この国では「安全・安心」という言葉がいとも気楽に使われている。 しかし、関係者が “安全確係のおマジナイ” のようにこの枕詞を唱え続けてきたにも拘らず、“福島原発の事故” は起きてしまった。 “3・11” の災害規模がかくも大きなものとなってしまったのは、災害発生の防止や減災への備えに不適切があったことによるものであり、それは国の制度設計の不備に帰することである。 “安全管理” の要諦は、(そのための)システムの設計と運用にある。 原子力や放射線の安全管理に係る制度設計(具現化されたものが関係法令)は根本的に見直す必要があると考えるが、根源に立ち返っての見直しの議論は沸きあがってこない。 関係者の思考が時空的に極めて局所的であり、“対症療法的” にして “行き当たりばったり” であるとの印象を拭い得ない。 制度設計を支える学術のレベルも脆弱であり、少なくとも放射線防護の分野では “真の専門家” と呼べる人材が払底している。

 概してこの国の制度設計は、形だけ作って魂が吹き込まれていないことが多い。 そしてそれ以前に、使用する用語の概念規定とシステム(制度はシステムである)構築の論理が脆弱であり、効用の評価やシステムの稼働に対する性能監視の機構が欠落している。

 原子力船「むつ」がトラブルを起こしたとき、既存の放射線審議会(RC)との役割分担を十分に検討しないまま原子力安全委員会(NSC)が設立されたが、RCがNSCを引き継いだ原子力規制委員会(NRA)の下部組織に押し込まれてしまった今日、当初RCに期待されていた国家運営上の役割を果たす力を失ってしまっているように思われる。 またJCO臨界事故の後、原子力災害対策特別措置法(原災法)が制定され、原子力安全確保の旗印のもとに巨額の予算が用意され、加えて行政と事業者の双方に様々の新しい役目が用意された。 しかし、“福島原発の事故” が起きてみると、その多くが対投資効果としては “効の少ないもの” であった。 “3・11” の後この原災法が改正され、「原発が過酷事故を起こしたときには、その後始末は事業者が担うこと」が織り込まれた。 国から(厳しい審査を受けて)許認可を得た事業者がその許認可に付与された条件を逸脱したことが原因で招いたものでない限り、安全対策上想定外とされていた災害が起きた時には、天災であれ人災であれ、その後始末に責任を持つべきは(事業者ではなく)国である、と考えるのが道理というものである。 極論すると、国は(災害発生時に想定される)事業者の財務負担能力だけを許認可の要件として審査すればよいことになってしまう。

 NRAはそれまでの「安全基準」をより厳しいものに替え、田中委員長は「規制基準」と呼称を変えた。 これからは “安全性” が 1,000年に一度から 100万年に一度に向上すると胸を張った。 一般人の多くは、1,000年に一度の頻度といわれれば、その一年は 1,000年先の一年と考える。 頻度の期待値をどれほど下げたとしても「安全神話」の放逐には結びつかない。

 安全論では絶対安全の追求は意味を持たない。 有限にして責重な(財的および人的)資源と時間は、災害対策においても適正に配分して使用されるべきものである。 御嶽山噴火の後、火山学会は、最悪の火山噴火では 1.2億人の命が失われる可能性があるとの声明を出した。 6,550万年前に恐竜を死滅させるに至った巨太陽石の落下があったことをも思い起こすべきである。

 首相は、国民の生命・健康・財産を守る行政の最高責任者であり、東電の社長は、社員の生命と健康、株主に対し財産の毀損回避に最終責任を負う。 しかし、有事の際の優先順位は当人の裁量に委ねられている。

 出来の悪い制度設計だけが生き延びて国家や民族が死滅することだけは避けて欲しいものである。  

- Energy Review - 2015-I


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