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放射線の「環境線量」と「個人被曝線量」
加藤和明
2013年10月12日 |
放射線の安全管理に係る現行のシステムにおいて「線量」の導入(=概念規定)と使用は不可欠である。「計量なくして管理なし」といわれるように、“制御”や“管理”には、定量の対象とすべき“量”が必要なのである。
放射線の安全管理では、放射線に身を曝したことにより“受けたであろうリスク”を表現するものとして使用する「放射線の量」と、これから身を置くことになる環境の危険指標(Hazard
Index)として使用する「放射線の強さを表す量」を必要とする。そして、前者には「個人被曝線量」が、後者には「環境線量」が使われるのである。後者には「線量」より「線量率」の方が相応しい表現であると考えるが、現行の国の制度設計では、一番の基礎としている管理基準が考慮する時間のspanを1年とか3月などと長期にとっているので、線量率ではなく線量と呼ぶことが多いのである。
従来の、平時を前提に組み立てられた、国の制度設計(具現化されたものが法令でありそれに基づいて発せられる行政指導)では、個人線量にしろ環境線量にしろ、特定の線源使用に伴って作り出される“追加線量”を意味するものとされている。環境に存する放射線は自然起因のものが主体をなすが、戦争起因のもの、兵器開発実験の産物として生成される放射性降下物由来のもの、災害や事故に起因するもの、医療目的のものを含め、特定の放射線発生装置や放射性物質の使用等に起因するもの、をも含んでいる。それぞれの寄与の割合は時間の推移とともに変化するし、自然に存する放射性物質は量・質の両面で、地域間の変動が、とても無視できないほどに大きなものとなっているので、追加線量というのは、平時においてすら、実測により求めるにしろ、推測により評価するにしろ、実は容易でないものと知るべきである。
3.11に被災した、東電の福島第一原発(1F)が、いわゆる過酷事故を起こし、1Fの敷地内はもちろん、周辺数県に及ぶ広い領域に亘って環境放射線のレベルが大きく上昇したので、1F施設内での職業被曝線量の測定評価はもちろん、国が求める「1F事故起因放射性物質」起因の「追加線量」の測定・評価も、従来の手法を単に延長して行うわけにはいかなくなっている。これは、3.11直後から容易に予測できたことであり、実際に“発言”もしてきたが、仲々理解が得られず歯がゆい気持ちで推移を見守ってきたのであった。
高感度の線量率測定器が個人レベルでも望めば使用可能となって、それによる集積線量(環境に存在するすべての放射線が寄与するもの)と、何らかの人為的操作により算出される“追加線量”(ある時間についての積分値)の評価が一致しないことに、漸く人々が関心を寄せるようになってきた。
最近、世界保健機関(WHO)が“環境放射線”の測定結果ら1F被災住民の受けたリスクの計算結果を発表し、国連原子放射線科学委員会(UNSCEAR)も
1F事故による“放射線影響”についての報告書を発表したが、評価の結果が違っていて、その理由が分からなくて当惑を覚えている専門家もいるとのことである(長瀧重信:どう考える放射線の健康影響、原子力文化、2013年8月号)。
「前者は線量をGy単位(であらわされるもの)で評価し、後者はリスクの測度としてSvを単位とする量(実効線量?)で評価しているから」とか「(平時における職業被曝の管理実績を見ると、分布の重心(平均値)や中心(最確値)が限度値の数分の1になるものであるとの経験則がある)など、解説にご苦労されているが、こんなところからも、影響学と管理学は別物であるとの思いを深くしている。
最近、「“1F事故起因放射性物質”による環境汚染により一般住民が受ける“追加線量”は、線量計の着用・実測によって管理すべきである」との論も聞こえてくるが、このような主張に私は賛同できない。「除染なくして復興なし」の大声運動に通じるものであり、合理的方策であるとは到底思えないからである。
誤解してほしくないので追記するが、私は、誰に限らず、個人線量計を着用し、実際に受けたであろう線量の値を知ることは有用であると考え、実際文章の形をとって公言もしている(加藤和明:全国民に放射線の個人線量計を、放射線教育、Vol.5,
No.1, p.25-26, 2001)のであるが、そのココロは「着用者(やその周辺の関係者)に安心を与えること」なのである。 |
(2013年10月17日 改訂) |
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