|
|
原子力規制委員会について思うこと
加藤和明
2013年09月30日 |
原子力規制委員会(NRA)が新設されて1年が経過した。 この間の活動に対して、様々の意見が飛び交っている。 委員長につかれた田中俊一さんが就任直前まで、当フォーラムの副理事長を務めてくださっていたこともあって、筆者の耳目にも沢山のご意見が寄せられる。
この1年間の NRAの活動を拝見し、それに対して寄せられたいろいろのご意見に接して、感じたことを以下に記したいと思う。
田中委員長とは、大役につかれた後、個人的な情報交換さえも遠慮申し上げているので、委員長ご自身や組織としての活動の様子はマスメディアの提供するものを通して得たものが殆どであることを、お断りしておく。
NRAが立ち上げられたのは、前政権である民主党政権のときであった。 停止中の原子力発電所(原発)の再稼働の認否に国民の関心が集まり、官邸では「科学的に安全と(専門家)が判断したものはそれを信じて安心せよ」
(例えば、森谷正規:1ミリシーベルトの呪縛、エネルギーフォーラム新書008、2012年02月14日刊、p.256)の正論に乗り、NRAの安全性判断を政治判断の重要な要件として、実質そちらに責任を押し付けたように見受けられた。
田中委員長は、政治に弄ばれる結果の招来を恐れたものと推測するが、「NRAは科学的判断だけを行い政治的判断は行わない」と明言し、それまでの 「安全基準」を「規制基準」に変えた。
政権が自民党主体の安倍政権に代わっても、上記の政治判断は安全性について NRAが下す科学的判定の結果に従って行う、というスタンスは引き継がれている。
どちらにせよ、本来別物である筈の政治的判断を科学的判断にすり替えようとの魂胆が明々である。 「科学的判断」と「政治的判断」が本来全く別のものであることは、後者に於いては判断を決断と読み替えることもできるのに対し、前者ではできないことをしても明らかなことである。
一方、NRAが政治的判断を一切することなしに任務遂行が可能かというと、それがまた“出来ない相談”となっている。 評論家の中には「NRAは科学に徹すべし」と言われる方(例えば、櫻井よしこ氏の産経新聞2013/09/02寄稿論説)もおられるが、昨今は、NRAがその判断に政治的配慮を含めないのはけしからんといった論調が幅を利かすようになっているように思われる。
我が国は、法治国家を標榜し、三権分立を建前としているが、実態としては立法・行政・司法は完璧に独立してその機能を果たしているとは言いがたい。
議員によって提案され成立する法律(議員立法)もないわけではないが、原子力や放射線に係るような専門性の高い事案は官僚が実質的に起案し、議会の立法機能を経て成立可能であるが、前者ではできないのである。
こうして、規制基準を定める仕事も、許認可対象案件の基準適合性の判断という仕事も、ともに行政が担うというのが、長い間この国で行われてきた慣習となっていると言っても良い。
専門性が高く、縦割りで設計・運営されてきた、原子力発電という specificな分野の仕事は、推進も規制も、経済産業省の所管とされてきたのは周知のことである。
昨年、規制の部分が切り離され、他の省庁が担ってきた関連の業務をも併せ、環境省に移されたわけであるが、基準を作りなおすという“立法”の仕事も、実は、NRAが担わされているのである。
そして、基準の設定や変更という仕事は政治的判断以外の何物でもないのである。
ということで、NRAには、実際上、科学的判断と政治的判断(決断)という2種類の任務が課せられているのである。
話は変わるが、3.11の後、原子力ムラが悪いとか、放射線防護のシステムを創った ICRPが悪いとか、専門家が悪いとか、マスコミが悪い、といった批判が巻き起こった。
原子力のムラがあるとしても存在することが悪いのではなく、批判されるところがあるとすればムラの在り様なのであり、ICRPや専門家やマスコミに向けられた批判も見当違いであって、問題とすべきはそれらが出す産物に立ち向かう受け取り手のリテラシーなのである。
筆者は、自身でも ICRPの報告書作成に関わったことがあるのだが、ICRPの活動や成果として発表される outcomesに対しては、マスコミの報道や専門家に向けて発せられる勧告への筆者の評価は残念ながら高いとはいえないものとなっている。
しかし、それはそれとして、ICRPの組織としての運営方針は優れたものであり、NRAもお手本とすることが望ましいと考える。
ICRP(International Commission on Radiological Protection)には国際放射線防護委員会なる訳語が定訳とされているが、此処で委員会と訳されているのはご覧のように
Commissionである(on と ofの訳し分けや radiological と radiationの訳し分けの問題もある)。 ICRPには下部組織として5つの
Committeeをも擁しているが、こちらも日本では委員会と訳されている。科学的資料の収拾とデータの整理と品質の判定、など、科学が受け持つ仕事をするのが
Committeeであり、それらを使って方策を決めたり、それを実行するにあたって必要とされるデータの推奨値を勧告するという仕事は政治的判断と呼ぶべき仕事である。
ICRPは、2種類の仕事の担い手を上のように呼び分けているのである。 NRAも、科学的判断と政治的判断2種類の判断を担うというのであれば、ICRPの仕組みを参考にすべきであると考える。
NRAというのも、国家運営のシステムに組み込まれた一つの(サブ)システムである。 システムというからには、信頼度や所定の性能が維持されているか否かを常時監視し、合目的性が損なわれたり、取り囲む環境の変化に順応できずに性能が劣化したりそのおそれがあると診断したときには、迅速に対応策が講じられるように
feed-backがかかる仕組みを附置する必要がある。 形式的には立法府である国会にその役目を担う委員会が設置されているが、高度に専門的な事項を取り扱うことになるので、専門家による補佐役集団を用意し、共同で作業をするのでなければ、実効は期待できない。
そのように考えると、NRAの発足と同時にNRAの下に移され、現在冬眠中の放射線審議会(Radiation Council)を、議会の附置機関に再度移すことも検討に値すると思われる。
アメリカでは NCRPが実際議会に附置された形で活動を続けている。 当然のことと思われるが、NCRPは必ずしも ICRPの勧告をそのまま受け入れてはいない。
ところで、政府やマスコミは、原発の再起動などに際しては、新しい規制基準準を満たすと NRAが判断すれば、安全は保証されたことになると受け取っているように見える。
新基準は、言ってみれば、1000年に1度の災害を 2000年に1度の災害に置き換えただけのようなもので、想定外の大災害が起きたときには規模の大小は別にして、3.11の繰り返しになるのではないかと心配している。
安全神話は未だ払拭されて居らず、危険神話は依然として蔓延っているというのが私の見立てである。 RNAの田中委員長は、9月19日に RNA発足1周年にあたっての所感を発表しているが、その中で「安全神話を払拭し、新たな安全文化を構築することが最大の課題と捉えている」と述べている。
悠長に構えていることは許されないと思うので、ハラハラしながら見守って居るところである。 |
2013年10月10日 |
|
|
|
|
|
|
|