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国は国民の放射線安全確保に明確な哲学を持つべきである
加藤和明
2011年04月23日
2011年04月27日 一部加筆等修正 |
3月11日の福島原発事故の後、色々と出される政府の施策を見ていると、国は国民の放射線安全確保に明確な哲学を持っていないことを痛感させられる。
内閣官房長官は、昨日、向こう1年間の累積放射線量が20mSvを超える恐れのある区域を「計画的避難区域」に指定して5月末までに住民を避難させる、と発表した。“年20mSv”というのは、今回の災害発生に伴って住民に対する被曝管理の基準値として従来の年1mSvを引き上げたものであるが、放射線障害防止法や原子炉等規制法等で、放射線業務従事者に対する職業被曝の管理基準として示されている5年平均の限度値でもある。
野口宇宙飛行士が161日間滞在した、地上約400kmの高さに在る国際宇宙ステーションISSでは、地上で1年間に受ける“自然放射線”起因の外部被曝線量のレベルである1mSvの線量を、半日か1日で受けるといわれる。従って、1年間で20mSvを超える恐れのある地域に、日本人の居住を認めないとする今回の政府決定に照らすならば、ISSに日本国民が住むことを認めていることとは整合が取れないことになる。過去において、宇宙開発委員会から意見を求められた原子力安全委員会は、“同意”若しくは“黙認”を決め込んだと思われる節があるのであるが、「20mSvを超える恐れのある区域には人の居住を認めない」というのであれば、整合のとれない話となる。
一方で、1999年9月30日に茨城県東海村で起きたJCO臨界事故で、被曝線量の推定値が1mSvを超えた住民に対し、原子力安全委員会は“被曝者”のレッテルを貼り、今に至るも(茨城県に委託して)年1回健康診断を続けている。
機会あるごとに言っていることだが、危険の回避と便益の追求は基本的人権と見做されるべきものであって、諸々の便益(リスクの低減も便益の1種)の間には様々の
trade-offの関係があるので、個人に関わるリスクや社会に関わるリスクの管理は、基本的に、宇宙飛行士の場合と同様、当事者の裁量に任せるべきであると考える。今回の災害に照らして言えば、居住を拒否された住民個人やその社会が失う便益には、「放射線被曝に対するリスク低減対策」により当人や社会が得るであろう便益(リスクの低減は1種の便益である)を上回るものが多いと考える。大体、当人死亡後のがん発症可能性の上昇は考える必要が無く、生活環境の悪化に伴い平均余命短縮の可能性上昇(これもリスクの1種)が、期待する“リスクの低減”を上回る可能性が、非常に大きいと考える。そもそも、放射線が人体に及ぼす影響と放射線事故が人体に及ぼす影響が等しくないことは、チェルノブイリ事故やJCO事故で実証済みである。
大国が競って大気圏内で核兵器開発のための核実験を行っていた1960年代には、空気中や地表、海洋中などの環境放射線/放射能レベルが、3月10日現在の値より約10,000倍高いものだったと気象研究所の記録が示している。ことの是非は別として、我々はある時期、このような環境の下で生活することを余儀なくされていたことも忘れてはならないと思う。
原子力安全委員会は、放射性廃棄物のクリアランス(放射性廃棄物を“放射性廃棄物でない廃棄物”に指定替えすること)の基準として、年0.01mSv(10マイクロ・シーベルト)を設定している。そこでは“放射性廃棄物”は「(放射線)管理区域内で発生する廃棄物」と解されている。今回の福島原発災害では、原発敷地内の管理区域外や敷地の外に、大量の“放射性廃棄物”が突然発生してしまった。“想定外”と言い訳をするに違いないこの事態に、国はこれからどのように対応して行くのであろうか?平和時を想定して定められている“放射性汚染”の管理基準は、すでに“適用不能”を来しているし、関係法令には、未だ、原子炉や高エネルギー加速器で生成される“放射化物”の概念規定も合理的規制方策も織り込まれていない。放射線審議会が0.01mSvとされているクリアランス・レベルを30倍に引き上げることを建議したのに原子力安全委員会は強固に反対し、従来の値の継続使用が続いているが、今回の放射性ガレキ(廃棄物)の大量発生を目の当たりにすると、あの騒ぎは何であったのかと改めて考えてしまう。
3月10日の時点では、緊急時の被曝管理基準は100mSvと定められていたが、災害発生後、福島県原子力防災センターが2.5倍に引き上げ、旧労働省を引き継いだ厚生労働省がそれを追認したと報道された。本来の所掌機関は放射線審議会であるが、電子メールによる持ち回り会議で不在であった会長を慌てて選出し、3月16日付で「緊急時の被曝管理基準」を250mSvに引き上げたこととして、国の制度設計上の不都合を取り繕っている。「適用を本災害に限定する」旨の但し書きがつけられている模様であるが、適用の要件や、収拾後の被曝管理の方針などは全く見えてこない。
食品の安全基準は、厚生省を引き継いだ厚生労働省の所管であるが、災害発生時には、食品の放射性物質含有に係る基準は全く定めていなかった。旧厚生省は「食品への放射線照射禁止」を決めていて、原子力委員会等が見直しの要請を行っても無視を決め込んで来た厚生労働省だが、3月下旬になって農作物の放射性ヨウ素や放射性セシウムによる汚染が顕在化すると、慌てて、原子力安全委員会の“指標値”を流用して、畜産物や農作物に係る食品含有法性物質の暫定管理基準を設定し、諮問された食品安全委員会はそれをそのまま承認したので、1週間後に正式に規制値として確定した。海産物についても放射性セシウムに就いて農作物に対して定めた値をそのまま適用すると発表した。住民に対する外部被曝の管理基準が平常時の年1mSvから、年20mSvに引き上げられたのなら、論理的には、内部被曝に対する防護策である食品の放射性汚染管理基準値も相当するレベルにまで引き上げて然るべきと考えるが、“緩和は消費者の不信を招く”との理由で、厚生労働省は暫定規制値の継続使用を決めたという(4月4日の日本経済新聞夕刊)。
仮に、我が国が原子力(の平和利用)を止めることにしたとしても、国民の放射線との付き合いはなくならないのであるから、放射線の安全管理に係る国の制度設計を“原子力の傘”の下においていること自体見直されて然るべきと考える(昨年「医療放射線防護協議会」の研究集会でも意見を述べた)。医療界と原子力界における放射線防護の実態の乖離が国益を損ねていることをも改めて指摘しておきたい。
この稿を書き終えた後、「20mSVの放射能を浴びると、どういう身体への障害が考えられるのでしょうか?」、「200mSvになったらどうか?」というお尋ねメールを戴いたので、お応えした小生の回答文を載せておく。
最初の問いに対する回答:
ICRP(国際放射線防護委員会)の勧告するデータの推奨値と考え方(論理)[私見ではともに安全側にとられている]を使い、私流の表現をすると、『QOLが3月10日現在のまま維持され、悪化することがない、とするなら、そして、将来における“がん治療率の向上”が見込めないとするなら、“20mSvの放射線被曝”が原因で、将来致死性のがんに罹患して死亡する確率が0.001/(1+0.001)だけ増加する』となります。実質的に“問題にならない”ということです。
分母に1ではなく1+0.001を使ったのは、人間というのは一度限りしか死ぬことができないからです。ICRPは「1Svの被曝がもたらすリスクは5%」と表現し、
多くの“専門家”と称する先生方はそのまま“%表示”を使っていますが、私には我慢のできないことです。
大事なことは、“リスク”というのは“障害”そのものではなく、“障害が発生する可能性”だということです。放射線防護の世界ではそれを確率で以て表現しているのです。
ともあれ、上に書いたことが、“実際上影響がない”と私が申し上げていることの背景です。
2番目の問いに対する回答:
@.確率論的影響[stochastic effect:我が国における定訳は「確率的影響;すなわち“致命的発がん”」(防護のシステム設計上はこれに“遺伝的障害”も含められているが主として前者)]は、ICRPの採っているLNTモデル(線量に閾値なく、受けた線量に正比例して増大していくという考え)に従うなら、20mSvの場合の単純に10倍となります。
A.確定的影響[火傷や眼の水晶体に濁り=“白内障”、など]は、発症に至るに、線量がそれぞれに定まっていると考えられている“閾値”を越えなければならず、私が昔(お偉いとされていた)MDs(お医者たち)から習ったところでは、今日の量や単位で言うと“250mSv”を超えない限り、普通のお医者さんの目には、何の変化も認められないというものでした。これを私の言葉で表現するとすれば、「血液を採って顕微鏡で沢山の視野を覗くというようなことをすればナニカ違いが分かるかも知れない、程度のもの」ということになります。
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2011年04月27日 一部加筆等修正 |
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