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安全と安心
加藤和明
2010年03月18日 |
万葉の頃の枕詞のように「安全と安心」がいとも“安易”に使われている。昨日は新橋の駅前で「安全・安心・安価」の枕詞を付けた飲み屋のタテカンが目に入った。
“安全”は哲学に係る課題であり“安心”は命の営みを続ける上での気持ちの持ちよう、換言すれば宗教に係る課題である。
安全学と銘打った書物も少なからず出版されているが、宗教学を学んでも宗教的な“悟り”が得られるとは限らない(多くは得られない)のと同様、安全学を学んだからと言って安全(確保の極意)は得られるものでない。武道や華道・茶道・香道などと同様、安全も“修業”を積んで体得すべきものであり、安心はその結果として与えられるものと心得る。
世の中に今必要なのは安全道を修行する道場であろう。
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(「鴻 知己」の筆名で2010年3月25日附電気新聞に掲載) |
<追記>
当フォーラムでは、「安全と安心」をテーマに、筆者が担当理事となって、第13回放射線防護研究会を開催したのであるが、その後研究会の資料をお送りした住田健二先生(大阪大学名誉教授・元原子力安全委員会委員長代理)から、伏見康治先生(元学術会議会長)がかなり前に「安全道」という用語を日本原子力学会誌の巻頭言でお使いになって居られたとのご指摘を戴きました。それで、当フォーラム会員のHMさんにお力をお借りして“調査”致しましたところ、件の巻頭言は近藤次郎先生(当時日本学術会議会長)がお書きになられたもの
[ 日本原子力学会誌、Vol.32, No.1, p.1, (2007).] と判明しました。
そこには
・・前略・・
わが国では、教育・訓練と修養によって技能と思考の高い統合的発信状態を道と呼んでいる。柔道、剣道、華道、茶道など皆これである。そこでは、形式(作法)と精神(心掛け)の双方が重視される。安全を確実なものにするためには、信頼性工学、システム工学などの科学的知識だけでは十分でない。それは形式に過ぎない。
・・中略・・
この“安全道”の考え方は余りに洗練され過ぎて(ソフィスティケーテッド)わかり難いと批判される向きもあろう。禅の精神と融合した茶道などその通りである。“安全道”の奥義はそう易しく達成されるものではない。だから修業が必要なのである。
・・後略・・
と書かれています。将に“上記の投書”で述べたかったことが、美しい文章で見事に書かれていました。昔この文を読んで私の脳に刷り込まれていたものが“無意識”のうちに出てきたものかと思われます。記憶力の悪さと調査の不足をお詫びしますとともに、HMさんのお力添えに深く感謝申し上げます。
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(2010年04月22日) |
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