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理事長コラム


放射線リスクへの対応が原子力災害のリスクを増大させている
加藤和明
2011年04月18日

 リスクという言葉は今日広く人口に膾炙していて、様々の分野で日常的に使われ、マスコミの報道にも連日のように現れる。“リスク”の概念を根源的に定義するなら、“危険が、個人や国家・国体に及ぶ可能性の、未来に係る不確実さ”ということになり、当然のことながら、使用する分野の別によって異なるものではないが、実は、着目する“危険”の内容は様々であり、従ってリスクの大きさを表す尺度(measure測度)も分野によって異なっていることに注意を要する。

 人々が、原子力に対して抱く“怖れ”は、究極のところ放射線(への暴露=被曝)に対する“怖れ”であると言われる。従って、“原子力安全(Nuclear Safety ; NS)”が目指すところと“放射線防護(Radiation Protection ; RP)”が目指すところは同じであると、普通考えられている。そしてリスクという用語も、両分野で、頻繁に使われる。ところが、その「リスク」なる用語が具体的に想定している内容は大きく異なっているのである。

 原子力安全(NS)の分野で言うリスクとは「(原子炉や核燃料を扱う)原子力施設が、人為的起因や自然災害を起因として引き起こす“原子力災害”発生の可能性」であり、その測度には“災害の大きさの期待値”が用いられる。期待値というのは数学用語であるが、(災害が起きるかも知れない)確率と(災害が実際に起きた時の)災害の大きさの積を意味する。

 一方、放射線防護(RP)の分野で言うリスクとは、「人体が放射線に暴露された時、そのことが原因で、将来、“健康に望ましくない影響”が表れる可能性」のことを意味している。RPの世界では、リスクの測度として“致命的影響発現の確率”を用いるのが習慣となっている。NSや他分野の多くがそうであるように、期待値を測度に使用するのであれば“平均余命の短縮”で表現することになるが、一部の専門家以外には採用されていない。

 さて、2011年03月11日に福島沖で発生した大地震は、東京電力の福島第一原子力発電所にも被害を齎した。Magnitude 9.0という“想定外の大きさ”であったにも拘わらず、原子炉本体とその収納建屋は地震に耐えたものの、無防備同然だった“大津波”によって非常電源をすべて喪失し、併せて、配管類が地震(本震と想定外の大きさと頻度でやってくる余震)によって相当に破損した(ものと思われる)ため、設計・認可の段階では国家として許容できる位に小さいと思われていた“原子力災害のリスク”が顕在化してしまった。リスク評価に使った確率の値が小さかったので、リスクは小さいと見做されたわけであるが、災害が現実に起きたということは、1よりはるかに小さいと見積もっていた確率が1として確定してしまったことになる。

 現在まで約40日の時間が経過し、これまでに顕在化した“損害”の大きさは、原子力災害発生に付随して起きたと見做される“人命の損失”や、“風評被害”を含めての“財的損失”は、巨大である。

 原子力災害のリスクには、それに起因する放射線被曝が齎すものも含まれるが、顕在化した“損害”の中に占める割合は他に比べて全く無視できるものであり、将来についてのリスクとて、F1内部で事態の収拾に当っている人達のことを別にすれば、既存の確定分と比較するにしろ、最終的に収束するまでこれから増え続けることが“確定的”である、将来の損害をも含めた“totalの損害”と比較するにしろ、放射線被曝が齎す損害の割合は、問題にならない程低いものとなるだろう。誇張して言えば、国家もしくは国体の命に関わるほどの災害なのであって、国民のQOLが大きく低下するリスクも現れ、それによる国民の平均寿命短縮の可能性の方が、3月10日に比較しての農産物・畜産物・海産物の放射能汚染や住環境の放射線・放射能レベルの上昇による、国民全体が受ける放射線リスクを遥かに大きいものとなるだろう。序に言えば、1960年頃の放射線住環境は、3月10日現在のものより約1万倍高いものであった(気象研究所発表)。

 この40日間、政府がとってきた“原子力災害収集の方策”は、付随する放射線リスクへの配慮に重きを置き過ぎたがために、“原子力災害”そのものの大きさを、過去の確定分と将来にわたる確定分のどちらについても、徒に増大させてしまったと言える。



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